昭和五十七年七月二十九日 朝の御理解
御理解 第九節 天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ、世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。
清濁あいのみというような言葉があります。教祖様の場合は清濁あいのみというのではなくて清濁一如の世界、清と濁を別々にしておられない、それをあい呑みというのぢゃなくて一如の世界というのであろうと思います。教祖様の御時代にある御信者が、いろいろお広前で信心のよもや話しの中に、お釈迦様がどうのキリストがどうのと、ま、いろいろ話しをしておった時に教祖様が大変気色を悪うされたという話しがございます。
そして釈迦もキリストも神の氏子ぢゃというふうに、いうようなお話しが伝えられております。いわゆる宗旨嫌いをせぬというのはそういう意味ではなくて、確かに清もあれば濁もありますけれども、それをギリギリ押し進めて考えてまいりますと教祖金光大神の場合はもう一如の世界、一つだと、世界勢力というのがアメリカとかソビエトとかと二大勢力を言われます、しかも赤と白ほどにその思想も違いますけれども、これはやっぱり赤だけではねどうにもできない、白だけではまたいけない、やっぱり赤があって白があってそれが場合には紅白合戦といったような事にもなりもするけれども、また信心願いとしては、それが一如の世界、紅白の重ねモチのようだとも神様は教えて下さった事がございます。
別々になると、紅白合戦のようになりますけれども、それが一つになれれる手立て、そこに私は清濁一如の世界があると思うですね。例えば、私の事を悪口をいう人がある、だからねまたこちらもいうて返すという間は相反しておるわけです。ところが私がおかげでとこう頂いた時には、それが一つになってるわけです。しかもそれがおかげになってるんだね、悪口をいうておる人が神様だと、これはまだ合楽が大きくなるぞというような頂き方の時にはもう一つの世界にあるんです。
いやむしろそれをね、有難いと御礼がいえれる世界、私共の人間関係の上にもまた、家庭構成の上にもね、様々な同じ思い、同じ心というわけにはまいりません、嫁が信心しよりゃ、舅親が信心しない舅おやが信心しょりや、子供やら嫁達が信心しないね、だからもうどうした奴ぢゃろうかという時にはもう相反しとる時です、ところがおかげで信心ができますと、いよいよ信心を進めていく時にもうおかげで信心ができておるという一如の世界があるのです。
信心はどうしても、ですからね、私、最近言われる合楽神愛論というのは、そこを極めて行く事だと思うです。一切が神愛だとね、日々自分の中にもね、家庭の中にもね、困った事だとしたらもう相反したわけです、けれどもそのおかげで信心が出来ますというところにです、争いもなからなければね、いわゆうもちつもたれつという世界ですよね。久留米の初代なんかは、大変豊かな大きな心の方であったですがね、例えば小倉の御大祭の時に、それこそ当時の偉い先生方が一同に集まって御直会という時に、桂先生が石橋先生をみてから、石橋さんあんたんとこの息子は馬鹿じゃなとおっしゃったち、いうのですね、馬鹿がどうあろうかち、例えば、というような心も起こってくるのでございましょけれども。
親先生おかげで信心が出来ますとおっしやった、石橋さんでかしたというて一番に杯をさされたというお話しがありますがね、本当に家にはこういう子供が出来てというてね、難儀を感じておられたらやっぱり子供の事を悪くいわれて、喜ぶ親はおりませんけれども、石橋先生の心の中にはお陰で信心が出来ます、おかげで信心の油断をせんで出来ます、といったような御内容であっただろうとおもいます。そういう今日の御理解から申しますと、小さく私の心の中から大きく、いわゆる世界は和賀心にある、と言うて、大きな事をいうというのぢゃない、その内容に一切が神愛と感じ取らせて頂くところから生まれて来るお言葉だと思うです。
世界はわが心にありとね、一切のものと、いわば調和する心の状態をいうのです。私共はそれを、なら知ってますよね、お話しを頂きますから、知ってますけれども実際問題としてです、お前んとこの息子は馬鹿かぢゃなと言われた時に、馬鹿がどうあるかと、まそれに売り言葉に買言葉な心が動くようでは、まだだから本当な事ではないと言うことですね、おかげで信心が出来ます、そういう信心をいよいよ進めて、まいりませんと、一切神愛論がマスター出来てもね、いわゆる覚えただけで論語読みの論語知らずと言う事になります。
それをいよいよ自分の血肉にしていきたい、それこそ世界は和賀心にありというような心の状態、それは一般では清濁あいのみ、そこに清と濁という別々にしてない、清濁一如の世界に住みたいですね。
どうぞ